倫理と常識を飛び越えて

 

ゲンロン200907と、ユリイカ7月号のクイズの世界において徳久さんが仰られていた「クイズは趣味の悪い遊び、まともな人間のすることではない」という発言を知り、初めてこの界隈へ自分がハマった理由を一欠片だが掴めた気がした。

 

他者を応援するというのは、傲慢で強欲な行いだと認識しながら、私はずっとファンという立場をやめられないでいる。

きっかけは多分アイドルで、今現在も並行的に学生スポーツとアイドルのファンをやりながら、QuizKnockを知ってからは彼らの活躍も追っている。応援している、と書いてもいいのだけど、私はそう表記することへ大変抵抗があって、いつも「好きです」「追いかけてます」とは言うものの「応援しています」とは表せていない。それは「応援」という行為がとても独りよがりなものである気がしてならないからだ。

彼らが出すものを受け取る時、そこには行動が多く伴ってくる。例えばアイドルがCDを出すのであればそれを買うし、学生スポーツなら試合を見る。そしてQuizKnockなら動画を観る、といった行動が。アイドルが1番わかりやすいのだけれど、その行動を起こすには金銭や時間の消費がほぼ避けられない。ただ私はそれらを受け取るための消費を義務だとは思わずに、お金を払う。自分が買いたいから買うし、見たいから現地へ行くし、そして観たいから時間を割いて観るのだ。それは私の中の有限のリソースを割いてはいるものの、結局割くという選択をしたのは自分だ。

ただ「応援」という言葉を、特に趣味に関して使うと途端に義務感までもがついてくる気がしてならない。それは発信する人間側が1番使うワードだからかもしれない。

「応援よろしくお願いします」と。

だから「応援してるんだよ」という言葉は武器にもなるし、凶器にもなる。

応援する、と選択したのは自分でしかないのに。

まぁ、なので私は多分これからも分かりやすさ、そして必要性がある時以外で、自分の好きなものを紹介した時に「応援してます」とは使わないだろう。これは私の単なる感情論からくる言葉の選択であり、また感覚の問題でしかない。正解なんてものはない。

 

私が好きになったQuizKnockの方たちは皆、クイズという正解を争うスポーツであり、正解を導きだす娯楽に魅せられている人達だった。クイズには絶対的に「問題」と「解答」が設定されていて、これは揺るがないもののはず。ユリイカを読む限りだとそんな感じがしました、ここら辺は浅い理解かもしれませんが。

 

クイズには多分、様々な側面と魅力があって、私がなんとなく感じ取っている面白さは氷山の一角にも満たないかもしれない。しかし、自分が動画内で出てきた問題を答えが出る前にわかった時には爽快感を得る。それほどまでに「正解」が持つ力は大きい。だからQuizKnockのアプリをいれたし、毎朝Web記事を解くのは日課のようになっている。そこに楽しさを見出しているのだ。

 

そして同じくらい、QuizKnockや東大王といった番組を楽しく見ているのには多分、中に出ている人間に対して何かしらの感情を抱いているからなのだ。

 

平成教育委員会、ヘキサゴン、IQサプリ……etc。

中学受験をしたこともあり、テレビが中学に上がるまではあまり推奨されなかった家庭の中でクイズ番組というものは「知識を得るもの」として許される存在であった。受験日が近づくにつれ、小説を読むことすらあまり良い顔をされなかった家において、新聞を読むことと同じくらいの位置にクイズ番組は存在していたのだ。それでも私はクイズ番組にあまり傾倒した記憶はない。むしろ禁止されていた中でいかに監視の目を掻い潜り、どうやって小説を読むかと奮闘していた記憶がある。しかも中学に入ってからもある程度はクイズ番組を見ていたし、サマーウォーズをきっかけにしてナナマルサンバツを読んでいた。それでもハマらなかった人間が今になってなぜ、クイズを核として活動しているお兄さん達にハマったのか。

 

自分の中でもハマったきっかけはなんとなく覚えている。コロナにより、試合観戦の環境も、コンサートも次々と中止になる中で好きなアイドルの動画を見ている時にオススメとしてQuizKnockの動画が出てきたのだ。確か、灘中入試を解く内容だった気がする。中学受験をした自分にとってはとても馴染みのある名前の学校で、つい動画を見てみた、そんなきっかけ。アイドルやアニメは、心が疲れている時にハマりやすい。そんな言葉をTwitterで見かけたが、私にとってそれは十分既知の存在のアイドルではなく、QuizKnockだったわけだ。そして気付いた時には、もう視聴履歴がQuizKnockとアイドルで埋まるようになっていた。

ただなぜ、途中から深夜の3時過ぎまでニコ生を見て、気づけば8時間の放送を見直し、またこのような文を書くまでハマったのかはずっと分からないままだった。アイドルならパフォーマンスを見て、スポーツなら試合を見て、心をうたれた。ということがある。

彼らの動画に面白さを感じることは多いが、心を動かされるほど感動などを覚えたことはない。それでも私は、他人から言われるまでもないくらいにQuizKnockを中心として

クイズの世界へ「ハマっていた」

 

QuizKnockだけが好きなのかもしれない、と思っていたものの東大王はほぼ録画して見ているし、ユリイカのクイズ特集を読んだり、徳久さんの書かれていた「国民クイズ2.0」も楽しく拝読したのでクイズの世界にも興味を抱いている自分が、そこには確かに存在していた。

 

それでも自分が、彼らが好きで、クイズに魅力を感じる理由は分からずにいたがゲンロンを観て、ユリイカを読み直したところで気付いたのだ。

私は「常識のある(であろう)人達が常識や倫理観を捨て、殴り合いをしている姿に興奮を覚えている」のだと。

 

クイズというコンテンツに魅力を感じてはいるものの、私はクイズ大会に出たい!とは思わないし、クイズのために知識を得よう。とは思わない。それでも東大脳クイズやユリイカを買い、ゲンロンを観るし、ナナマルサンバツも読み直し始めている。そしてそれは、とても楽しいことだった。

学力的なものではないが、クイズをしている人達というのは「知識を得ること」に対して貪欲だなと思う。だから、ユリイカでは凝った言い回しも多く、久しぶりに辞書をひきながら本を読む経験をした。知識、というと学力的なことと結ばれがちではあるが正直、私が覚えているような選手の背番号だって、アイドルの愛称だって知識である。そして私がそれらを覚えているのはそれらが付随するものの核を好きだからであり、必要だからではない。でもクイズをしている人達というのは、クイズが好きだからこそジャンルの垣根なく、というかクイズでは必要になる全ての情報へアンテナをはっている。これは1アイドルが好きでも、他グループになると誕生日どころか名前すらあやふやな人間からすると凄いとしか言葉が出ない。

 

だからこそクイズをしている人達は世の中で、情報としてもぶつかることの多い「常識」や「倫理観」を「知識」として持ち合わせていてもおかしくない。これはクイズをしていない人ですら持っているものだ。

 

常識とは何だ、とか、倫理観とは。という話になると細々としてしまうし、それこそ生活環境も関わってくるので定義づけることはしたくない。でも1番分かりやすく表すには多分、この常識と倫理観というワードがわかりやすいと思うので今回はこの言葉を使っている。そしてここでいう「常識や倫理観」は道徳的な「人殴ってはいけません」「他人の嫌がることをしてはいけません」「自分が嫌がることは他人にもしてはいけません」といった他者との関係における人間的に行ってはいけない、とされている行為のことを大まかに括った時の表現だ。

 

この思考は、ユリイカにおいて伊沢さんがボクシングを例にお話されていて、ルールやモノを知らなければボクシングというものは痛ましいものと捉えられるように、そのルールが周知されていない現状のクイズというものは知識でマウントをとる行為と捉えられてしまう。と話していたことも影響している。

多分、知識としてこの人たちはそういった言葉を知っている。でもそんな人達が相手に勝とうとする時、1番を目指すとき、はたまた解答を求める時というのはこの「常識や倫理観」を手放しているのではないかと思ってならない。

例えば、東大王における難読オセロでの宮川一朗太さんの大逆転劇に私は言い表せないくらいの興奮をした。普段は東大王チームへ肩入れ気味に視聴しているにも関わらず。その時の自分の視点を思い出すと、東大王チームを倒せ!という感情は抱いていないのだ。むしろ東大王チームの心を折りに行く戦術を、あの穏やかな顔で選択する宮川さんに「やった!!!!最高だ!!!!」と思ったのだ。同じ感覚を得たのは、ふくらさんが推薦枠で東大王に出演された際に最後の早押しにおけるヒラメキ問題を瞬殺した時と、これまたナゾトレにふくらさんが出演されて松丸さんの謎解き問題を瞬殺していく姿。

しかし私はふくらさんが特別に好きなわけでも、はたまた松丸さんが嫌いなわけでもない。

けれどルールで許されるならば、解答権を得る為にこの人達は人を殴ることさえ厭わなくなるのではないか。そんな風に見えるほどヤバい顔つきになり、自分の持つ知識という武力で殴り合いを行うのだ。また知識という武器を使うだけでなく、精神的なプレッシャーを与えるために持ち時間をゆっくりと使い、分からないけど他者に答えられないように押して問題自体を潰す、などの戦法をとったりもしていた。これらに言い様のない興奮を覚えて、多分私はこのクイズという世界を面白く外野から眺めてしまう。

 

正直、ボクシングなどと同じだと言えば同じだ。ただ私は怪我という表面上に出てしまうものを見ると痛そう、という印象が先にきてしまって倒す人間が持つ、暴力性を楽しむことが出来ない。ルールで許されることは分かっていても。演劇の中でも飛び降りる人間がいたらつい息を呑んでしまうように。

しかし心の辛さ、というのは可視化しづらいもので、涙や表情・動きといったものでしか分からない。汲み取ろうと思えば汲み取れるものの、客観的に痛みを測るのが難しいものでもある。だからこそ私にとって、特に競技クイズは受ける側の痛みではなく、殴る側の姿を注視することが出来るものだった。

更にその殴り手が、人間的にまともかは分からないが「常識や倫理観」と呼ばれるものを既知であろう人間であるからこそ、胸の高鳴りを抱く気がする。なぜ、そこに対して興奮をしたり、ときめいてしまうのかは多分ギャップ萌えの一種だと思う。日常生活においては見ることの出来ないであろう姿のように感じるのだ。それが倫理や常識から外れたことだと尚更。

 

そして多分、彼らの知性と呼ばれる部分を覗けるからこそユリイカなどで真面目に(?)語っている姿を拝見するのが楽しいのだろう。理性を見ながら、同時に野生を見ている。人間が持つ多面性のうち、ここまで表層的に他者の二面性を捉えることが出来るのは、クイズというものが持つ情報の多さと言葉の多さの結果なのではないか。とも思う。

この状況に陥るのは、いわゆる競技クイズと呼ばれるもので多く見られる場面だが、時々普通のルールを排した競技性のないクイズでもそれは見られる瞬間がある。

 

クイズの世界では解答が必須であり、作問者は解答される前提で問題を作ると何度か見かけた。クイズは正解してこそ、成立するものだと認識されている。つまり、それは正解者がいれば、クイズとして成立するわけである。だからこそ時々、これも状況によりけりだろうが作問者が常識を捨てる瞬間もある気がしてならない。その時に競技クイズではなくても、常識や倫理観を失くした人間を見られるのだ。それにも私は胸の高鳴りを覚えてしまう。これはルールの抜け穴をついている姿にも近いのだが、それを行うのも知性がなければ出来ないことだ。例えば変体仮名クイズ動画において、伊沢さんが放った「京いろはかるたには『京』があるし、河村さんが最後にひらがなを出してくるはずがない!」の言葉が分かりやすいものかなと思う。これは答える側ではなく、作問者がルールの穴をついてきた形になる。(結果的には答えは平仮名で、これは伊沢さんの深読みだったわけだが)

わざと穴のあるルールを作り、そしてその穴をつくこともクイズの作問者側は実際出来るのだ。利きクイズの動画では実際に行われていた。

ルールというものは、基本的に穴がないものを求められているはず、で。だから競技クイズの世界では、こういう行為は多分笑って許してもらえるものではないんだろうなとも思う。ただそこを許容できる部分があるのも、クイズというジャンルの懐の深さである気がする。

 

まぁ、ここまで色々と語ったが結論として私はやはり精神的な殴り合いを見ることが楽しいのだと思う。そしてそれが高次元であればあるほど、現実の地続きに存在するものではないような錯覚をして楽しめるのだ。人間でありながら、人間として必要とされるものを捨てて、人間ではないようなものに見えるクイズプレイヤーたちの姿は。

 

そしてこれからもクイズプレイヤーと名乗る人達が、彼らの持つプライドと武力で殴り合う姿が見られたら嬉しい。

 

 

abcは残念ながら仕事の都合上、拝見できなかったけれど円盤があると聞いたので購入できそうならしたいな、と思いました。また実況や解説があると、確定ポイントのお話なども聞ける気がするので、さらに楽しさを見つけられる気がします。その大会におけるメタ的な読み、というのはその界隈にいる人だからこそ分かるものも多いと思うので。

 

こんな楽しみ方がプレイヤーの人々からすると良いのかは分からないが、クイズプレイヤーと呼ばれる人間をこうして楽しく見ている人間がいるということを書いておくのもいいかなと思い、自己整理も兼ねて書いてみましたが高尚なものでもなければ、真面目なものでもないのでnoteではなくはてブロに。

そういえば先日行われたオンラインイベントでの30問ガチクイズ対決も最高でした。躊躇なし、配慮なし、イベント的進行すら頭から追い出した山上さん、伊沢さん、ふくらさんの殴り合いに心躍りましたね。12時間クイズも見ながら終始、脳内麻薬が出ていた気がします。